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「廊下に誰かいるよ」
 イヴがそういうと同時に、ロドリゴがこちらを振り向いた。薄く開いた扉の間にある深緑の瞳に彼らが気づいたかどうかはともかく、ティックはこれ以上隠れている意味はないと腹をくくった。
 扉を蹴り開くと、中にいる二人をにらんだ。
「なにやってるんだよ」
 今まで生きてきて最も怒気にあふれた声だろう、とティックは思った。自分の声を観察する別の自分が冷静に今をみつめていた。
「見ての通りさ」
 その声に答えたのはロドリゴだ。まるで紅茶に砂糖をいれたとでもいうような平坦な口調で答えると、彼はこちらから距離を置くようにイヴのそばに並んだ。
 いまから進んで彼の手元の薬を奪うのは簡単なことではないだろう。イヴがおそらく許さない。
「実験?」
 だが、できないですまないこともある。
 その言葉を簡単に聞き返した後二人との間合いをつめる。ロドリゴはすぐに押さえ込めるだろうが、イヴは厄介な相手だ。ここでどうにかなるとおもわないほうがよいだろう。
「話すことはないよ。ファースト。それより、あたしたちを黙って見逃してくれない?」
 軽い口調でいっくるイヴを睨みつけた。ティックの手元で力がはじけ、一メートル弱ほどの長さの緑色の光の剣が発生した。それを手の中におさめながら目の前の二人を見やる。
「黙って帰すわけないじゃない。解毒剤とかおいていってくれるなら別だけど。自分の子供を実験台に使うなんて人のすることじゃないだろう」
「ん、どうだろうね」
 その言葉をきいてイヴが軽く肩をゆらした。軽く嗤うと大きく息をついた。
 あざ笑うような笑みを浮かべながら彼女が口を開く。出てきた言葉こちらに対してではなく、ロドリゴに向けられていた。
「だってさ。ドクター・シュルート。どうしよっか」
 彼がなにか言おうと口を開いた瞬間、この場にいる三人のうち、誰の物でもない声が流れた。
 対決するガンマンの間を流れる一陣の風のように。
「ロドリゴは、僕の父さんじゃないよ」
 ティックは後ろを振り返り、彼をみた。
 ジン。
「なんで」
 ここにいるの、と言おうとしてそれはジンに対してではなく目の前の二人に対して言う言葉だと気づいた。どちらにしても、ここに彼がいるのは危険だ。
 すぐに離さないと。
 離して------
 だが、そこで敵から視線を外したのがティックにとって命取りになった。
「僕は」
 ジンがなにかを言いかけると同時にイヴの手が動いた。ダーツを投げるように注射器を取り出しジンに向けて放ったのだ。
 人間離れした怪力で投擲されたそれはジンの胸------心臓部分に深々と突き刺さった。
 その中に液状ウイルスが満たされていたのは疑う余地もない。針を通して血管に侵入したそれは彼の心臓が一度脈打つと同時に身体を巡り、一気に浸食を開始した。そして次の瞬間糸が切れた操り人形のようにジンの身体から力が抜けていく。
 最後に彼が声にならない声でこちらの名前を呼ぶのが聞こえた。が、ティックがそれに返事する間もなく、イヴのつま先が眼前にせまる。
 肺がつぶれるような衝撃がティックの身体を襲い、そのまま勢いが死なないまま部屋の端に置いてあった食器棚に激突した。声をだせずリノリウムの床に倒れ込む。
 棚のガラスが割れて中にあったカップや皿が飛び出した。いくつかのものが床に落下し、ティックの眼前で白い破片となって飛び散った。
 ジンが現れてからそれらが床にあたって割れるまで、およそ数秒。
 大きくティックは胸を膨らますと、血を吐き出した。
 それぞれ倒れ込んだ二人をみやりながら、してやったりというような笑みを浮かべてイヴが言ってくる。
「さてさて、仕上げといきますか」
 そういって懐から別の注射器を取り出した。そして床に突っ伏して動かないジンではなく、ティックのほうに向かってくる。
 その間に倒れ込んだジンをロドリゴが抱え、リビングのほうに歩いていく。その背中に罵声をあびせたかったがそんなことをしている余裕はティックにはなかった。視線をイヴの左手に映す。
「それは」
「なぁに、ちょっとした薬さ。すぐに飛べるよ」
 風邪を引いたから点滴をするんだとでもいうような口調で返事をすると、イヴはティックの上にのしかかる。そしてティックが抵抗できないように地面にうつぶせにし、腕を大きく振りかぶるとその注射器をティックの後ろの首筋に突き立てた。血管に刺さったその針を確認したあと注射器の中の液体をすべて流し込む。
「......っ!」
 声にならない悲鳴をあげて地面を転がってのたうつティックをおもしろがるような目で見ると、彼女は空になった注射器を投げ捨てた。
 それからティックの身体の奥深くから女性の物とは思えない機械的な声が響いてきた。

【殲滅兵器ミラクル・レインボウ 稼働開始】

 ティックの額がはぜ割れ、金色の瞳孔を持つ第三の目が出現した。そこからさらに顔をなぞるように太い神経が血管のように浮き出してくる。身体の周りでわずかに静電気が弾け、力を解放した。それが宇宙空間に浮かぶ巨大な静止衛星に送信されていく。
 そして、それが雨のように振らせる高熱のレーザービームを自分で制御できないことも。
 動けない身体でそこまでを一気に理解した。腕の先から力が抜けていく。
「あははっ、これであんたも、この家も、あのガキも全部消え去るってわけだね。最高じゃん」
 這いつくばったまま怒声をあげるティックを覗き込むように、イヴがしゃがみ込んでくる。
「なんでカルやリコがあんたやあのガキにこだわるのかは知ったこっちゃないけどね。五年前の借りはきちんとかえすよ。クラウと同じ薬でいけるって、幸せじゃない?」
「クラウ......?」
 その名前を小さく口の中でつぶやきながら、その目をにらみ返す。
「......殺した......?」
「ああ、同じ薬でね。あんたのヤツは、それにちょっとしたおまけがはいってるけど」
 ティックは自分の怒りで自分の頭髪が持ち上がる感覚に襲われた。実際は髪の毛一本も反応無しだったが、そうなるかと思うほどの怒気が自分の中で膨らんで、小さな爆発を次々と起こしていた。
 この目の前の女を掴んで、この世の不幸を全部ぶつけてやりたかった。本気で怒ることなど今まで無かったのに、今ここまで怒っている自分を珍しいとおもう。
 だが、身体が言う事を聞かない。
 そこにたたみかけるように、勝ち誇った笑みを浮かべながらイヴがつづけてきた。
「30分でいけるよ。それまでゆっくり寝んねしてるといいさ」
 こちらの頭を床に押し付けると、きびすを返して立ち去ろうとした。が、その足首をすかさずティックは掴んだ。薬の効力を完全に無視して筋肉を動かした。そして絶え絶えの息で身体をはわせ、イヴの顔を睨みつける。
「ジンの解毒剤......おいてけよ」
「うるさいね」
 小さくあきれたようにつぶやくとイヴはつま先を振り上げティックの顎にのめり込ませた。浮き上がったところを喉を掴み、反対側の壁に思い切り叩き付けた。
 家全体が揺れたかのような轟音が響き、壁が砕けちった。床と壁に血の跡を残しそのままティックが力なく倒れ込む。
「相変わらずお人好しだね。この解毒剤をあたしがもってるとでも? そんなわけないじゃん。バカだね」
 それだけを吐き捨てると、部屋からでていく。
 ティックは大きく息をついた。クラウにも投与したという劇薬------おそらく人間用だろうが----ーはかなりの効き目があった。ティックの筋肉を弛緩させ、行動の自由を奪った。
 どうやって例の兵器を動かしたのかはわからないが、それだけでも効果はあった。
 おそらく----------

 だが、彼だ。
 ジンはどこにつれていかれたのだろう。

 頭が回らない。
 ティックの目の前を暗闇が襲っていた。頭が靄がかかったように白濁し、思考を停止していく。単純な感情だけが自分の中に残り、それが身体を動かしていく。
 死んでしまいたいと思った事は今まで何度かあったが、眼前にせまるとこれほどまでに恐ろしいものなのかと、ティックは感じた。今はまだ死にたくはなかった。すくなくても、彼より先には。

「ジン......」
 それだけをつぶやいた。自分の状態を理解できる範囲にはなかった。
 だからその頬を、血ではない暖かいものがつたっていることに、意識を失うまで気づく事は無かった。

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