その男が持っていたナイフはなにか特別なものでできているのか、それとも世の中に存在するナイフはえてしてそうなのか、刃物といったら料理包丁ぐらいしかしらないフランカだったが、相手が手にしているそれが酷く鋭利で高性能であり、特別なものであることは感じ取れた。
そのナイフによって切り飛ばされた自分の右足が赤い糸をひきながら目の前に転がる。続けて相手が振りかざしたナイフが右肩を裂き、鳩尾を蹴り上げられた後壁に叩き付けられた。
声にならない激痛。息が詰まる鈍痛と右足と肩から来る鋭い突き刺すような痛みがフランカを悶絶させた。
腕があがらない。
自分の血が地面を流れていくその先では、倒れたラーサに馬乗りになった男がナイフを振りかざした。
そしてラーサの身体に突き刺す。
一度目。悲鳴があがった。血しぶきが向かいの壁に飛び散った。
二度目。漏れた声は後からくぐもった何かに変わる。喉が切り裂かれた。
血が横に飛び、その飛沫がフランカの顔についた。
目を見開く。背ける合間はなかった。
ただ自分が彼女の名前を呼んだ事は覚えている。
憧れだったプロのバレエダンサー。彼女が眼前でナイフで切り裂かれて死にむかっている。
もう何度目になるかナイフを突き立てたところでラーサは動かなくなった。
それが振り上げられる度に赤い液体があたりに飛び散り、惨劇と化していく。
血が河の様に流れ、手が力なく地面に落ちる。
ラーサ。
ダンシング・アンダー・ザ・レイン
次に目覚めたのは、病院だった。
白い天井、白い壁。白い掛け布団。
首を振る。自分はどうやら生きているようだ。
隣を見ると、そこに立っていた女医がなにやらカルテに書き込んでいた。
「お目覚めですね。気分いかがですか?」
夢だったらな、とも思う。茫洋と視線を向けていると彼女はこちらの返事を待たずに続けてきた。
「怪我の方は手当てが終わりました」
素っ気ない口ぶりだった。医療の人間とは思えない口ぶりに相手の顔を凝視してしまう。
こちらの視線に気づいたのか、カルテから顔をあげるとその女医はフランカの顔を見てきた。不快そうというわけでもないが表情らしい表情がなにも浮かんでないのがどこか不気味だった。
「……なにか?」
「……いえ、なんでもないです……」
「はい。それではしばらく入院していただきます……手続きは近々ご親族の方と一緒にすすめます。それまでは安静になさってください……。説明は後程行います。松葉杖はベッドの脇に設置してありますので歩くのに不自由を感じる様であれば使用してください」
一方的に説明を行うと女医は靴底を鳴らしながら部屋を出て行った。白衣がはためくのを見送るとフランカは小さく息をついた。
(なんだここ)
とりあえずベッドから抜け出そうと身体を動かす。横に身体を返し、いつも通りベッドの上に座った状態になってから下を確認せずに立ち上がった。
が、それが間違いだった。
「うわぁっ!」
思わず声を出して右肩から床に倒れ込んだ。手を着く暇もない。体重を支えるそれがそこになかったのだ。
右足が。
思わず息をすする。悲鳴とも言える声をうめき声をあげながら包帯が巻かれた右足を見つめた。そこは太ももから先が何もなく、ただリノリウムの床が見えるだけ。
左足と明らかに長さが違う。右足は膝から下が切断されていた。
「正夢……?」
思わず呟く。ここで思い浮かんだのは夢の中の出来事についてではなく明日の練習をどうするべきかということだったがそんなことを考えている場合ではない。這いずるようにベッドに近づくと備え付けられていた松葉杖を掴んで立ち上がる。
ベッドの端に手をつくと、松葉杖を前に押し出して身体を動かす。さらにあわせて左足を動かし、それを続けるようにしてフランカは歩いた。
ようやく部屋の入り口までたどり着くとフランカは扉を開けた。松葉杖を手放すと倒れてしまうので逆の手で取っ手を掴み、手前に引く。鍵がかかっている訳でもなくあっさりと開いた。
あの女医は自分に安静にしてろと言ったはずだが、誰かをここに見張りにつけさせるわけではないようだった。荒々しく呼吸しながらそこからのっそり身体を出す。
あの女医は説明はしたがここがどこなのかの説明はいっさいしなかった。そのためここがどこかわからない。市内の病院なのだろうが、それにしては医者の態度が素っ気ない感じもうけた。
廊下を見回すが他に人影はなかった。ただ淡々と白い壁と床でできた廊下が続いているだけで、病院にいつも見かけるような看護婦や走り回る医者もいない。ただ壁と床と天井。一定間隔をで設置される扉。
唯一の特徴といえば扉の向かい側の壁がガラス張りになっていて、眼下は巨大な庭園になっていることだろう。その草木や花々が生い茂る巨大庭園をぐるりと囲むように建物が続いている。
これではまるで、
(病院……?)
思わず疑ってしまうような場所だった。市内に。フランカがいる建物の廊下はひたすら先まで続いていて、曲がり角は果てなく遠い。ガラス張りの壁と白い壁と扉、それらが一定間隔で続く通路がどこまでも果てしなく続く。奥まで二百メートルはあるだろう。ずいぶん大きな建物だ。
歩くのが辛そうだ、とフランカは思った。持久走には自信はあるが、片足で松葉杖をついた状態ではどこまで歩けるか自信がない。そもそも歩いたところで出口に辿り着ける保証もない。
どうしたものか思案していると、後ろから突然声をかけられた。
「どこに行くの?」
「……ッ!」
緊張に思わず息をすすりながら振り向く。先程まで無人だった廊下にいつの間に現れたのか、金髪の女性が立っていた。
驚いているこちらを尻目に、彼女は淡々と続けてくる。
「ここを出るのは……ルール違反だよ」
「はあ」
相手をじっと見つめる。長い金髪に白い服。足首ぎりぎりまである丈の長いワンピースを着ている。右手は肌色だが、左腕と左手はわずかに見える指先から全てが不自然に黒い。肩口からそこだけ黒いペンキで塗りつぶしたように見える。
右手の一部と額に包帯を巻き、頬に絆創膏を貼っているから、恐らくどこかで負傷してここにいるのだろう。
その相手の顔を見る。見覚えのある顔だった。
「あ……アレ……シェン……カ……?」
霧がかったような記憶の渦から相手の名前を絞り出す。それを聞いて彼女の表情がやや警戒するように変化した。
「あたしのこと知ってる?」
「え、だってこないだ」
と、そこまで言いかけてやめる。爆発にまきこまれていたことを思い出す。
てっきり好意的な言葉が返ってくるとばかり思っていたため面食らってしまった。まちがいなく以前に会ったことがあり、話したことがある。
だが実際こちらも彼女とどのような言葉を交わしたのかが出てこない。
アパートの爆発が起きたことは覚えているのだが、その前後の記憶が酷く曖昧になっている。思わず頭をおさえる。
「あれ、会ったよね……何話したっけ」
こちらを怪訝そうに眺めながら、相手はどうでも良いとばかりに息をついてきた。
「……そういうの、たまにある」
そしてじっと彼女はこちらを見つめてきた。前髪の奥に左目を隠す眼帯が一瞬だけ見える。
「名前まで知られてたのは初めて」
「会った事あったらフツー名前がでてくるものだと思うけど」
「どうかな」
こちらの科白を相手は鼻で笑うと青い瞳を向けてきた。感情が殆どこもっていない視線にたじろぐフランカをよそに彼女は続けてくる。
「どこにいこうとしたの? ここからでるには許可がいるよ。偉い人の許可」
「そうなの?」
別なことを問いつめたかったが、ここで口にだすとややこしくなりそうなので黙り込む。しばらく相手の顔をまじまじと見返すとフランカは首を傾げた。
「そっちは、何の用事?」
扉はたくさんあるのにピンポイントで自分に話しかけるのであれば、自分に用事があったということだろう。そもそも廊下にでただけでこちらが逃げ出す意思があることを確認できたわけではあるまい。
そもそも逃げ出せやしないしね、と無い足を意識しながら心の中で呟く。
「君を」
相手はそういうと左手を少しだけくねらせた後、こちらにゆっくりと差し出してきた。不思議な動作に思わず疑問符を浮かべる。
「連れてこい、といわれたので」
「誰によ」
怪しい。眉を思わずしかめながら厳しい声で尋ねる。だが相手は軽く肩をすくめ、
「さあ、誰だろうね……」
こちらの感情を逆撫でするようにはぐらかしてきた。この状況でその返答、フランカの中に苛立ちが沸き上がった。
ここで握るのも癪なので相手が差し出してきたその手を左手ではたいてやる。相手の顔に感情をぶつけてやりたくなった。
「君と話しているとなんだかいらいらする」
「うん。よく言われる」
彼女の顔が一瞬暗くなる。それがあまりに露骨だったので一瞬自分の言葉を後悔するが、言葉にはしない。そのまま二人の間に沈黙が訪れる。広い廊下に空気以外のものがつまるような感覚。フランカはうつむきながら、相手ははたかれた左手の先を眺めながらしばらく黙り込んだ。
しばらくそのままそうしたあと、ふと唐突に相手が口を開いてきた。
「そう、わかった」
そしてこちらとの距離を縮めてくると、素早く左手を伸ばしてこちらの顔を掴んでくる。
「え、ちょ……」
「ごめんね」
そして次の瞬間頭を突き抜けるような衝撃とともにフランカは気を失っていた。
ゆっくりではなく、一瞬。
それは本当にあっという間だった。