Episode 4 : Mag
階段を急いであがると家の中に声を投げた。
「ただいまー」
弱々しい声を家の中へなげる。後ろを警戒しながゆっくりと扉をしめると、フランカは再び息をついた。このアパートまでついてくる人間はとりあえず今のところいない。
そもそもなぜ自分がこういった事を警戒しなければならないのかよくわからないが。
「おかえりー」
こちらの心配とはまるで無関係な姉・ドーラの緩い声が返ってくる。夕食をつくっているらしく料理の匂いがフランカの鼻孔をついた。
緊張を解きながら中に歩いていく。リビングに入った途端、フランカの動きはとまった。
その場所にいる人間をみて思わず息をとめた。
「……げ」
つぶれた蛙のような声を出して
「おじゃましてます」
そこにはスプーンを銜えた金髪の少女がちゃっかりテーブルに着いていた。彼女の前には紅茶のはいったマグカップがおいてあり、その隣には小皿にもられたジャムが置いてある。アレシェンカはそれをスプーンですくって口にいれたところだった。
それを指差してフランカは声を失った。
「あ、あんた……」
「マグカップ? おねーさんが貸してくれたよ」
彼女が話す度に口にくわえたスプーンがぴこぴこと動く。それを耳にした姉が隣から口をはさんできた。
「うん。フランカのじゃないよー」
その科白に対してアレシェンカはにっと笑うと、
「だって。いいよね?」
「そうじゃないわよ! なんでここにいるのよ!」
「え……だってあたし君のボディガードだし。ずっと傍にいるのは当たり前だよ」
「嫌よ! とっとと帰りなよ! もうあんなのに巻き込まれるの御免なの!」
「あたしのせいじゃないよあれ」
「あんたが疫病神なんでしょ!」
「なにそれ……ずいぶんな言い方だね」
「おちつきなさいってフランカ」
「姉さんは落ち着きすぎなの!」
となりから言ってきた姉に鞄を半ば投げつけるように押し付けるとフランカは二人に踵を返して部屋に戻ろうとした。と、突然部屋に通じる廊下の扉が開いて一人の男が顔を出してきた。
「やー、シャワーありがとです。助かりましたー」
「……」
フランカは突然眼前に現れたその男を半眼で見やった。身構えながら数歩後ずさる。
彼はこちらに気付くとにこやかな笑顔で言ってきた。
「フランカ、さっきは悪かったな。おじゃましてるぜ」
しばしの沈黙。その顔をまじまじと見つめる。
「あんた、さっきの人じゃない?」
「おう」
先程自分にナイフを突きつけた時とはまったく正反対の、悪意の全くない笑みをうかべる相手を無視してフランカは後ろの二人を振り返った。こちらを見てくる二人にむかって苛立ちを抑えながら半ばうわずった声で言った。
「どういうこと?」
ダンシング・アンダー・ザ・レイン
004
アレシェンカが知っている事は、ある程度刷り込まれたものである。それはアレシェンカ自身も把握していたし、それを話す事に後ろめたさが全くなかったかといえば嘘になる。
だが今回は場合が場合なので、殺人事件に関する情報は操作されていないことを願いながら説明を重ねた。間違った情報で間違った手筈を踏めば自分は助かったとしても身近な人間の首が生々しい意味で吹っ飛ぶことになる。
とりあえずこちらが一通り説明を終える。フランカはそれを信じてくれたようだった。
「嘘でしょ」
唖然としながら彼女が発した第一声はそれだった。
「なんであたしそっくり忘れてるの?」
「諸々含めて政府の陰謀だろ」
濡れた頭をタオルでふきながらその若い中国人ーーダニーと名乗ったーーは不自然な程に流暢なロシア語で言ってくる。そちらをじろりと睨んで彼を黙り込ませるとアレシェンカは続けた。
「ご家族の承認ももらってるの。どちらかというとバレエの件が重なったからこの処置を取ったって感じかな」
「バレエの件?」
「殺人鬼に襲われる可能性があるなら、うちの施設にことが収まるまでいてもらったほうが安心なわけ。でもバレエの件がはいって、まあそこはうちの都合なんだけどこれ以上被害者は出したくなくって。君を治した」
「バレエの件って、そんな大事?」
「うーん。あたしは末端だから良く知らないけど上の人が好きみたいなんだ。だからあたしとしてはバレエが大事というより、被害者を救うほうが大事、って感じかな。フランカだって踊りたかったよね?」
「それは」
「だから身体を治した後、唯一無事が確認できたお姉様に確認をとったの」
そこでアレシェンカが言葉をきると、彼女は身体を寄せてきた。
「じゃあ、うちのアパートが爆弾で全壊したってのは……」
「本当だよ」
「あたしが劇場の帰りに襲われたってのは?」
「……それも本当」
「姉さんも、本当は大けがなんじゃ」
「うん。うちで治させてもらったの」
視線を横にずらしながらフランカが姉を見る。彼女が何にともなくスプーンを口に運びながら頷いた。それに続いてアレシェンカが説明しようと口を開く。
「司法取引で、怪我と住居の保証はさせてもらったんだよ。ここもあの後君たちの記憶を元に再現した実在するアパートなんだ。もちろん仮のアドレスは別にとってあるけど、それも」
「ざけんじゃないわよ!」
こちらの科白を遮ってそう叫ぶとフランカは大きくテーブルをたたいて立ち上がった。その衝撃でテーブルクロスの上の料理が危なげに揺れ、ぶつかった食器同士が硬質な音を立てる。
それとともに真っ正面からぶつけられた怒気に思わずひるみ、口の中で小さく声をあげた。こちらの彼女は鋭い目つきでこちらを睨みつけてくる。
「なんであたしたちがこんな目にあわなきゃなんないのよ! 全部他所様の都合でしょうが!」
「それは、それはね、わかってる。だから、いま犯人を探しているんだよ」
「落ち着けって」
「だいたいあんたはなんなのよ!」
横やりをいれてきたダニー目掛けてフランカの恫喝が飛ぶ。ややひるみながら彼は視線だけでアレシェンカに助けを求めてくるが、彼を助ける義理はないのでそのまま知らんぷりを決め込む。
期待を裏切るこちらの意図を読み取ったのか、どこか落胆したように嘆息すると、ダニーは口を開いた。
「事情が複雑なんだよ。殺人事件やっちまってるヤツ、犯人か……は実は俺の友達なんだ。いろいろあっていまの状況になっちまってんだよ。あいつを助けたいからこっちにきたんだ」
「それに協力しろって? あたし友達殺されてるのよ?」
「それは知ってる……別に俺は君に協力しろとはいわないけれど。俺が協力してほしいのは寧ろFSBだし」
目が泳いでいる。フランカに対するダニーの弱気な態度に呆れながらアレシェンカは隣でこれみよがしに大きく嘆息する。
今度はフランカがこちらをみて尋ねてきた。
「あの契約書にそんなの書いてないでしょう?」
「あー、うん。そうだね……中国人のことあたしはきいてないし」
となりで同じようにたじろいでいるダニーに視線を流しながらアレシェンカは語尾につれて声が小さくなっていくのを感じていた。アレシェンカは自分がこういったプレッシャーに弱いことを知っていたが、今回は今まで経験したことのない圧力が目の前にあった。
(若い子って怖い……!)
同い年にも関わらずそんなことを思ってしまう。同い年の同僚が殆どおらず普段から年配のVIPを守る仕事しかしてなかったこともあるが。
こちらのその曖昧な態度がさらにフランカの苛立ちを加速させたようだった。彼女は顔を真っ赤にしながら椅子を蹴飛ばして立ち上がり、そのまま大股で歩きながら自室に引っ込んでしまう。
あとにはスプーンをもったままそちらをみやるドーラと硬直したままのアレシェンカ、ぼんやりとした表情のダニーが残された。
そちらを見ながら、ぽつりと呟く。
「先が思いやられるなあ……」
++++
フランカとドーラが寝静まった後アレシェンカは周囲に警戒しながら外にでた。爆破事件のあった後に変更したここの住所はK13の人間しか知らない。比較的安全な場所だ。
「あー」
空を見上げる。今日は夜空が綺麗だった。それなのにも関わらずアレシェンカはいつもの科白を口にした。
「死にたい」
今ここが襲われる可能性は低いはずなのだ。ぼんやりと呟きながらそんなことを考える。
そしてダニー。彼から聞いた話をとりあえず信じて、ここまで連れてきた。仲間の女は近くの建物に潜伏させていると言っていたがそもそも何者なのかも聞いていない。
と。
「よお。死ぬとか簡単にいうもんじゃねえぞ」
後ろから声をかけられる。振り向くとアパートの階段からダニーが降りてきたところだった。黒いジャケットを羽織り、両手をポケットに突っ込んでいる。夜中だけあって吐く息は白い。
「夜中に女の子が出歩くとあぶないぜ」
「……あたしは平気」
アレシェンカはそのダニーと名乗った男を見やった。中国人だがロシア語がやけに流暢で、来ている服が黒ずくめである。うさん臭いことこの上ない。
彼を見やりながらアレシェンカは口を開いた。
「いくつか……質問させてもらっていい? 答えられないなら答えられないでいいけれど」
「ああ」
彼があっさりうなずいてきたので拍子抜けするが、それを顔には出さずにアレシェンカは続けた。
「本当は、何者なの?」
「怪しいか?」
「うん。一応……友達助けるって話だったから連れてきたけどね」
「嘘だったらどうするんだよ」
「うーん。それならそれで気兼ねなく殺せるから。別に構わない」
笑みを浮かべながらアレシェンカは右目を光らせた。彼の顔が一瞬ひくつく。
二人の間にしばしの沈黙がおちる。しばらくしてからダニーは困ったように眉を寄せ、左手で後ろ頭をかくと懐から小さな手帳を差し出してきた。
怪し気な薬品が付着していないことを確認すると、アレシェンカはそれを受け取って中身をみた。奇妙な文字ばかりでよくわからないが、添えられた写真は確かにダニーの顔であることがとりあえず分かった。
眉をしかめて彼に短く伝える。
「……読めない。なにこれ」
「中国版FSBだよ」
「ダニーってのは……仮名?」
「海外で活動するときの名前。ジャッキー・チェンとかジェット・リーと同じだよ」
「誰それ?」
「映画みないのか?」
その問いには答えずにアレシェンカは小さく肩をすくめるとその手帳をダニーに返した。それを受け取ると彼は大事そうに懐にしまう。
間をおいてからアレシェンカは再び質問を重ねた。
「目的は?」
「さっき話したじゃんか。こっちで暴れてる友達を助けにきたんだ。新種のヤクで頭がいっちまってて早く助けなきゃ死んじまう」
「そんなこといってもこっちもこっちで法律あるし……助けることができてもすぐ終わらないと思うよ? 実際に人も殺しているわけだし」
「そこらへんは大使館がなんとかするよ。俺が聞いたときにはもう殺しちまってるみたいだったから、俺は単にヤツにこれ以上人殺しになってほしくないだけさ」
ダニーの目を見る。その言葉は真摯なものを感じ取れたが、その裏でなにか隠しているものがあるように見えた。それを話させる質問が思い浮かばないのでとりあえず今気にかかることを続ける。
「その、なんでフランカを襲ったの?」
「こっちきたときに会ったお前の課のヤツに教えてもらったんだ。あの子を傷つけるつもりはなかったよ。そいつがその件ならとりあえずアレシェンカに会えって。で、アレシェンカに会うためにはあの子に会えって」
エドゥか。
邪魔がはいったことにあとでぶっ飛ばすことを心に誓ってからアレシェンカは大きく息をついた。
「そんで……あたしとどうしたいの?」
「一緒にやってくれると助かるんだ。俺とあいつがこっちに派遣されたが俺たちはこっちに土地勘がない。俺たちは友達を捕まえたいし、君は殺人犯からフランカを守りたいわけだから、利害は一致すんだろ? まあエドゥだっけ? あいつから君を紹介されたんだけど」
「そうねえ……それ本当?」
「こんな大事な時に嘘言わねえよ。嘘だと思うならあとでエドゥ?に聞いてみるといいさ」
彼の目をじっと見つめる。それから空に視線を移してアレシェンカは呟いた。
「……寒くない? こっちは」
「北京に比べると寒いかな」
時計を見てみる。夜一時。
「じゃあ、仲間に話してみる。それで結論出すよ。それでもいい?」
「たすかる」
ダニーが口の端をつりあげながら言ってくる。それにたいしてなにも言わずに返すとアレシェンカは踵を返した。
アパートから立ち去っていくこちらの背中にダニーの声がかかってくる。
「おい、守らなくていいのか?」
「別件」
そちらを向かずにゆっくりとそれだけを発音すると、アレシェンカはと"夜の目的の"場所にむかって歩き出した。